●ちょっと個人的感傷も含みWS詳細
NEVER LOSEとメガトン・ロマンチッカーの名古屋ワークショップ、二日間の二日目、片山が講師をつとめた。
「役者」をやるには何が必要なのか?
その答えは明確ではない。
そんな問い掛けから二日目がはじまった。
日本に演劇の賞はあっても演劇検定があるわけではない。
でも芝居をやってる人口はかなり多い。
そこには見ていられないようなことしか出来ない役者、団体もあれば、無名でも胸を打って止まない一生見続けていたいようなそれもある。
ではこの前者と後者は何が違うのか?
もともと持っているセンスはあれど、「センスはあったのになあ~!」で終わる役者もいる。
「上手い役者になるな、いい役者になれ」とかつての恩師に言われた事がある。
「上手い」っていうのはこの場合、技術のある役者のことだ。
技術しかない役者にはなるな、そんなのつまんないから。という意味で師は多分毎年入れ代わる子供達にその事をさとすのだ。
けれども。
技術のない役者に、表現できる事は限られている。
じゃ、例えば技術ってどんな種類があるの??
ってことで、知る人ぞ知る強烈かつ嘆美なあの金杉忠男作品『花の寺』の冒頭部分を片山はテキストの一つとして取り上げた。東京の下町の遊女たちが年を取り、昔を懐かしむ淫ビなお喋りを繰り広げる。私がかつて舞台芸術学院在学中、えっとあれはハタチのとき、この作品の役を演じる機会があった。
なんとも魅力的で不可解な作品なのだが、作品背景を作者であり当時の先生であった金杉氏その人にヒントすら貰えぬまま、彼は知らない世界へ旅立ってしまった。
上演の当時も、先輩や金杉アソシエーツが『花の寺』をやってるビデオを何べんも見て、いいなと思う役者さんの方法をコピーした。
なので私の身体にはその裏づけのないマネッコの演技しか残ってない。
ま、でも狂言の授業で「学ぶ」の語源は「まねぶ」であると同じころ教わった。師匠がやってみせて、それを真似するところから、古典芸能は伝承されるわけで。(と、片山がWS中に言ったことを引用)
そんなわけで、『花の寺』を知ってる私のやる方法を見てもらって、皆様に真似をして頂いた。恐縮です。
私事だがおよそ四年間、舞台に立っていない。
花の寺を演じたのは八年ぐらい前。
からまわりしつつ、徐々に感覚を思い出してゆきました。
ワークショップの本質をそっちのけに、本気で楽しんでしまった。
名古屋上陸をした花の寺に格別な思いを抱きつつ。
少しの間、制作さんを離れて興奮しつつ。
技術が全てじゃないけれど、技術も大事。
そーゆーことを分かってるNEVER LOSEはすごい。
でたらめな自画自賛じゃなく、これからの道程を示唆する、いい時間を過ごせました。
楽しかった。
(この日記はソーシャル・ネットワーキングサイト、『mixi』内の私の日記に書いたものとほぼ同じ内容をこちらにも載せたものです。mixiでも見て頂いた方、どうもすみません。)