●稽古場レポート
稽古場レポート by 寂光根隅的父
NEVER LOSEの稽古はとてもデリケートな空気に覆われている。そしてこのデリケートさは言葉で説明するのがちょっと難しい。いわゆる緊張感とは手触りが違う。俳優たちは極めてリラックスしている。
しかし彼らが歩く時、立ち止まる時、椅子に腰掛ける時、私はどうしようもなくそれを見てしまう。そして一度見たら容易に目を逸らすことが出来なくなる。
釘づけというやつだ。
これはいかなるテクニックによるものなのだろうか?いや、どう見ても彼・彼女たちは特殊な身体技法など使ってはいない。
そのままじっと見ていると演出の片山雄一から指示が出る。
「何でそこを通るの?隣の椅子の間にして。」
役者がそのとおりにすると、その場の気温が1度上がる。
演技が再開されるがまたすぐに別の役者に指示が飛ぶ。
「何でその向きなの?もう少し右じゃないの?」
彼がそのとおりにすると、また稽古場の温度が1度上がる。
稽古はこのように少し進んではすぐに中断し、その都度実に細かいダメが出る。
「その距離じゃその台詞言えないでしょ?もう少し近づいたら。」
「おまえ、ビール開けるのにそのタイミングじゃねえだろ、人の台詞聴いてなかっただろ。」
こうして温度もだが、その場の空気そのものが凝縮して圧倒的な舞台空間と時間が創られていくのだ。
こんな風に書くと、片山という演出家が役者の一挙一動を支配する権力欲のかたまりのように思われるかも知れないが、実際の本人は全く正反対である。
大声を張り上げることは一度もないし、音響操作から明るさの調整まで自ら実にこまめに動く。
そしてくだらない冗談を小声で言っては自分で笑っている。役者の方も屈託なく、よく笑う。全員が集中すべき時はシンとするが、それ以外は各自がそれぞれの過ごし方をする。
休憩ともなるとまるで上野動物園のサル山のサルの如く、奔放な群れとなってばらばらに遊んでいる。そして誰が号令するでもなく、集まってきてまた「自分の居所」に立つ(座る)。
どうやら片山は、ひたすら彼・彼女たちを「そこ」に「居」させる、「彼」と「彼女」を「向き合って立」たせる。そのことに集中しているようなのだ。
そして「彼」のいる「地点」から「彼女」に「言葉」が「届いている(届いていない)」、そのことだけをひたすら描こうとしている。だから役者も自分の立っている場所、立っている向き、相手との距離、自分が発した言葉の行く末、相手から届く言葉の音圧に耳を澄まさざるを得なくなる。
そんな日常当たり前にやっている事を殊更に取り上げてどうすると思う向きも多いだろう。しかしそういう方にこそ、是非NEVER LOSEの芝居を観て頂きたい。
当たり前だと思える風景を殊更に微分していくとそれは既に1つの宇宙大となる。格別劇的ではないのに俳優の一挙一動によって創られる、あの空気に当てられたら、あなたの日常までも宇宙に見えてくるに違いない。
流麗な台詞を吐かなくとも、特別大袈裟な身振りをしなくても、大どんでん返しがなくたって、人間はそこに居るだけで充分劇的であり、宇宙空間を体の中に、また人と向き合う関係性の中に持っている。片山の一見クールな視線は、そんな風に人間に対する愛情と信頼に注がれている。
「何も足さない、何も引かない」
彼・彼女たちの稽古を見ていて、ふとそんな旧いコマーシャルの1節を思い出した。
2月22日(木) 仲町地域センターにて
寂光根隅的父
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稽古場レポート by 砂原かづき
NEVER LOSE稽古見学させていただきました。(2/28)
稽古場全体が緊張感に包まれておりました。
それはきっと俳優達の作る、人と人との間に起こる緊張の空気です。
それを見ていた私まで緊張しました。
この空気があの千種文化の空間に充満したら素敵だろうと思います。
素敵というのはなんか切なかったり、ばかばかしくて笑えたり
心をぎゅぅと捕まれる感じです。
NEVER LOSEの稽古場は演出家と俳優が同じ高さで、
きっと本番にはお客さんも同じ地面に立っているのだと思わせてくれました。
人は無意識に“無意識なもの”に憧れるのかな?と最近思います。
人は舞台に立つと無意識に“無意識を無くす”から意識して無意識であれ。と
片山さんがワークショップ(だったかな)でおっしゃっていたように思いますが
間違ってますかね?
砂原かづき
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稽古場レポート by 松岡愛(やん)
2月の演劇オープン・ラボ、NEVER LOSE作・演の片山コースを受講していたあたしは、稽古中幾度か感じずにはいられませんでした。
片山さん、、厳しい、恐い・・(´ー`;)、と。
そして案の定NEVER LOSEの稽古場でも、もちろんワークショップ以上に、片山さんは恐かったです。(笑)
私の見に行ったときは特に、稽古がいつもよりまじめな感じだったと片山さんはおっしゃっていましたが、
通し稽古なのにもかかわらず容赦なく役者に飛ばされるダメが、稽古場の雰囲気をどんどん悪くしていました。
そして気付けば稽古場一帯がとてつもない緊張感、圧迫感に包まれ、観ているこちらまでも緊張で身動きが取れない状態。
全神経を舞台の役者に集中させ、固唾を飲む思いでその様子を見守っていました。
しかし稽古場の雰囲気が悪くなるに連れ、一見いかにも窮屈そうなその緊張感が、なぜかとても心地良く、その緊張感の中での間の取り方、会話のテンポは自然と体に馴染むもので、むしろ安心感さえ感じることに気付きました。
そしてこの気持ちいい緊張感・圧迫感こそが、片山演出なのだろうなぁ〜、と実感したのです。
今回の見学で初めてお話を最後まで聞かせて頂いたのですが、内容も、宮沢賢治の話に始まり様々な“人々”の思いを取り込んでいるにもかかわらず、どれもとても繊細で丁寧で、深みのあるいい作品だと思いました。
本番これがまたどれだけ洗練されたものになっているのか、観るのが楽しみですっ!
以上、やんのベタ褒め稽古場レポート?リポート?・・レポートでした。
あ、これは別に片山さんが恐いとゆう悪口ではないので悪しからず。(笑)
松岡愛(やん)
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[取材:演劇] NEVER LOSE 『廃校/366.0』
☆2007年3月3日(土)20:00〜21:00
☆仲町コミュニティセンター(東京板橋区)
いよいよ今週末に迫った名古屋公演に向けて、追い込みに入ったNEVER LOSE。そんな彼らの稽古場を取材した。
午後8時すぎ。稽古開始の午後6時に間にあうことが出来なかったが、何とか稽古場の仲町コミュニティセンターに到着。稽古場のドアの前に立つと、中からは大きな声が聞こえてくる。ケンカでもしているような雰囲気・・・おそるおそるドアを開けて入っていった。
スタッフに促されて、パイプイスに腰掛ける。取材用に持ち歩いているノートをカバンから出すのでさえ、ためらわれるような緊迫感・・・と思ってセリフを聞いていてのだが、思わずノートを落っことしそうになった。
「オレたちは正義の味方だ!」
「地球の平和を守るため、日夜たたかっているっ!」
「ヘンなものが…」
「カレーが好きだ!イエローだ!」
おおよそ、こんなことが真剣に語られているのだ。
『…な、なんなんだ、コイツら?セイギノミカタっていったい・・・。』
ハプニングなのか、そういう演出なのか、ときおり稽古場には笑い声も起こる。ふと気づくと私自身も巻き込まれて笑っていたり、笑いすぎて『ワワ、しまった?』と口を押さえたりしつつ「場」になじんでいくのを感じた。千種文化小劇場の円形劇場を想定した立ち位置や、舞台レイアウトを思わせる少し丸く配置された何脚かのイスを使い、描かれていく舞台空間。突飛に思えたセリフたちも、やがて微細に描かれていくこの世界をつくりだす重要な要素だと気づき、私はペンを握りなおした。『何だろう?何がここで描かれようとしているんだろう?』彼らを見つめながら、私は気づいたことをメモに落としていく。
語られていたのは登場人物が、それぞれに抱えていた怒りやカナシミや、愛情や敵意や、誤解や了解だった。「演劇」といっても、彼らは非日常的な動作でそれらを行うことはない。日常的な動作や声のトーンで時間は流れていくのだ。前回彼らの作品を見たのは『4人のための独白』という作品。叫ぶような独白に、登場人物の孤独な静寂が見事に立ち上がる秀作だったが、今回の作品は互いが交錯する「会話/対話」によって成り立つ作品らしい。『…私は、他人の会話/対話を今、見ているのだな。』そんなことを思いながら彼らの世界に近づくことにした。
私たちが日常の中で他者と会話/対話するとき、それは「自分のできごと」であって、主観的なものだ。自分の言った言葉に反応する相手がいて、相手の言葉に反応する自分がいる。そういう意味で、会話/対話は自分と相手の中に存在し、決して会話/対話の外に自分も相手も存在することができない・・・ヤヤコシイかも知れないがこういうことだ。NEVER LOSEの稽古場で、私は日常ではありえない状態「会話の外がわ」に自分が存在していて、目の前のデキゴトを経験しているということ…。もちろん、これは登場人物の中の誰かに自分を重ねているというのではなくて、他人の会話/対話をずっと見続けることの意味を言っている。知らない誰かの会話/対話を私たちが見続けるというのはどういうことなのか。
NEVER LOSEの役者・山本祥子の演技は、彼らの演劇への想いをストレートに感じさせてくれる。彼女の演技には「ウソ」がない。語られるセリフに「不自然さ」がない。彼女が手にするコンビニ袋の中では、空缶の立てるカランという音までがリアルに感じられる。不思議なものだと思う。人は目の前のデキゴトが「虚構(事実上存在しない)」と分かっているにも関わらず「現実感」を伴うと、そこから目が離せなくなる。ウソが、ウソなく提供されるときに発動される求心力…ここに演劇の持つ不思議さがあるように思えるのだが、NEVER LOSEの稽古場で、私はこの力を味わっているのだと気づいたのだ。
しかし、虚構が現実感をまとうには相当なエネルギーが必要らしい。NEVER LOSEの代表でもある谷本進が演技をはじめたときだ。演出の片山雄一からキビシイ言葉が飛んだ。「抑えろ。」
「左手!」
「いい加減にしろ、帰るぞ、オレ。」
役の持つ感情が深いものであるほど、演じる役者の想いは熱くなって当然だ。谷本はその熱の衝動に突き動かされそうになるのだが、片山はそこをグッと抑えさせる(全体のセリフを音の調子に例えるなら、耳をすませたときのトーンバランスというか、そういうものの調整をはかっているようにも思われた)。谷本が演じ、片山がダメを出し、谷本が受けて、次に演技して、再びダメだし、谷本が受ける…こういった作業が何度繰り返されただろう。この作業に耐えるためには大変な集中力と、モチベーションの維持がなければならない。気力の弱い役者なら、きっと途中で演出家・片山との闘いから降りてしまうか反発するかのどちらかだろう。しかし、谷本は降りない。最後まで自分と演出の指示との間で格闘し、見ている私には片山のダメだしで劇的に変わっていく彼を見ていることがうれしかった。信頼関係がなければ成り立たないという、裏打ちされた気分の良さがそこにはあったからだ。
劇作・演出を担当している片山雄一の作品にふれるのは、今回で2度目だが、作品中「…座れば?」というセリフが多く出てくるという印象が残っている。この言葉は相手への許容であり、思いやりであり、これから向き合おうぜ、というスタンスを感じさせるものだ。彼らしいと感じるのは「座ってよ。」でも「座れよ!」でもないという点だろうか。「座っても、座らなくてもいい。」という選択肢を相手に与えながらも「向き合いたいんだ。」と語らせる。“無頼派”と、彼らを賞した言葉をどこかで目にしたが、なるほどそうかも知れない。
作品として、これから最後の磨き上げに入る前…いってみれば「未完成作」を私は「味見」したわけだが、彼らの稽古場を後にしてふと口の中にガラス片のようなカケラが残っているのに気がついた。それは「これからどう仕上がるだろう?」という期待とまだ完成していないものへの歯がゆさの結晶のようなものだ。“カリッ”とひとおもいに噛んでみたい衝動に襲われるが、いや、まだ早い。本公演まで、この楽しみはとっておかなければもったいないだろう。本番を見て、私は思う存分、口の中に残ったカケラの正体を確かめたいと思う。それは、賞賛の言葉をこの舌から止められなくしてしまうのか、それとも砕けたカケラで血を流させるのか…。
本番を控えた彼らと同じくらいに、私もひそかにスリリングな時間を過ごしている。劇場で彼らと再会するのが楽しみだ。
かめだけいこ






