« 自分を越えられるのは自分だけ(大石代悟師範) | メイン | 谷本進・次回出演情報。 »

蟻が巨像に敢然と戦いを挑む。

来月3月15日広島市内の広島サンプラザで何かが起こります(写真)


OPEN MINDは大事です。


SHOOTーMINDもカッコいい。

心が閉鎖的なのは良くない。

最近はオープンマインドですよ!


これから静岡へ帰省します。


明日、
昔お世話になった長澤先輩が一生一代の昇段審査に挑みます。
極真空手5段に挑戦です。


内容は形の演武と50人組み手です。

50人組み手とは一度に50人連続で、試合をします。


極真空手は直接身体に打撃を与えるので、決起盛んな黒帯や茶帯と立て続けに約一時間にわたり真剣勝負するんです。


長澤先輩は43歳、今までの激戦であちこち痛め、直前の稽古で足を骨折して、まだ骨がついていない状態
にもかかわらず逃げずに審査に挑みます。

これ以上無いお手本です。

昭和63年(1988年)自分が15歳の時同級生の村田真と、国際空手道連盟静岡支部分大石道場の竜南道場に入門した際からずっとお世話になっている先輩です。


当時の道場はとにかく武道場だから、規律が厳しかったし殺伐としていた、
本部の沼津にいる大石師範とは数ヶ月に一度稽古をつけていただけるかで、雲の上にいる人で大勢いる道場生の中で声をかけてもらえるなんて有り得なかった。


たった一度だけ審査会が終わって帰り際、


「谷本!」と言われ、


「押忍!!」

と答え。


「拳立て何回できたか?」


「押忍!58回です!!」

とにかく舞い上がり
まくったのを覚えている。

師範や黒帯の先輩とはほとんど話しかけてもらえなかったし何言われても「押忍」としか返事が出来なかったから、行動で示すしかない。


そんな憧れの空手家を目指し、毎日居残りで稽古をしていたら、
ある日黒帯の先輩が
声をかけてくれた。
それが長澤先輩で、

先輩は他の道場から移ってきたた外様だったから、土着の先輩より
苦労されていた。


そんな先輩が稽古の仕方を質問したら、教えてくれたり、
空手の面白さを教えてくれた。


道場で一番上の先輩に、長澤先輩が最近谷本頑張ってますよ、と言ってくれて、


上の先輩が「そうだな」と言っていたぞといい、いつも何かとやる気にさせてくれた。


先輩から教わった技は自分の財産になった。

今でもあの時の会話は忘れる事が出来ない。

ここでも書いたがつまらぬ喧嘩からケガをして道場を休みがちになり、バンドの初ライブから人生観が変わりにそっちに行ってしまった。

それから10年がたった1999年、しばらく会っていなかった同級生の杉浦貴紀(知らぬ間に長澤先輩の道場に通っていた)から、

長澤先生が
俺とか村田の名前を懐かしそうに話し、あいつら今何やってるんだ今度道場に連れて来いと
言われたよ。
当時NEVERLOSE旗揚げ2年目だったが居場所もなく一番弱っていた時だった。


あれから先輩は道場を3つも持つ分支部長になっていて、大石首席師範に認められ空手だけで生活できるように道場を任されるまでになっていた。

そして長澤道場に顔を出した自分達に、今の道場生達が入口に向かい身構える(道場破りとかあったみたいだし)、


極真空手の道場は昔から外部の不審者に対してはそんな緊張感や雰囲気があった。

長澤先輩がこいつらは竜南時代の後輩だから、入れてやってくれ。

そして紹介され道着を持って無かったがジャージで稽古に参加した。


なんだこいつはと思われる中、先輩がみんなに、伝説の竜南道場でやっていたお前らの先輩に当たるやつだ
仲間に入れてやってくれと紹介してくれた。

そして多感な時期に教育していただいた先輩にNEVER
LOSEという名前は
極真空手の失わない精神、諦めない心から
来ていますと伝える事が出来た。
つまり原点に心身共に帰る事が出来た。


だが実は先輩は昇段審査の40人組み手を前日にやって、アバラが折れたり満足に歩けない状態で直の後輩の指導員にその日の稽古を任せ休もうと思っていた所、俺達が道場に行って
トラブルになら無いようにわざわざ来てくださっていた。
(それから10年後の明日に繋がる)


再会したその後数日して一緒に言った村田は勤めていた会社を辞め、本来やりたかった絵の世界で勝負する為単身上京し、全てを絵に捧げる生活を何年も送り、上野の大きい美術館で何年が連続で白亜展に入展した。
(実際絵を見に行った)


その後2000年からの俺の躍進を見れば少なからず大事な精神を思い出させてくれた先輩のおかげでもある。

そして2003年末から2004年にかけて、
谷本進史上もっとも疲れ果て苦しんだ時期、
静岡で長期療養していた時、
杉浦と村田(大石道場に再入門していた)を通し、沼津や磐田の静岡県内や
岡山や沖縄に再生の
旅に出た当たりの時期、再度長澤先輩の道場にお世話になる。


そして再度俳優業に挑むが、会社や客演した作・演出と上手く行かず体調がまた悪くなり、事務所を辞めてフリーになり静岡に帰った。
(NEVERLOSEも動かせ無かった)


その時から2005年始めMAMORU・SHIMIZU・anglasadのウエアブランド立ち上げのPVのショートシィルムに(ヤブキタカユキ監督、横山太平撮影)主演で呼んでもらえる直前まで、長澤先輩の道場にお世話になっていた。
(村田がanglasadの感情を探す男という俺の映像復帰作品をダビングして先輩に渡してくれていた。)


あの時はとにかく無心で稽古したし、
大会に出る高校生にボコボコにされ続け
たがコノヤロウって向かって行けた。
隣で高校生にやられてもやられても立ち向かう30歳過ぎた同級生の杉浦の姿もかなり
グット来た。


村田の通う社会保険センターの道場にも空手の出稽古させてもらった。


確か2004年のクリスマスイブも少年少女達と道場で稽古していたし、年末の稽古納めも参加したな。


(去年の11月に静岡市凱旋公演をした場所であるBARパワーホールのマスターにも、2003年から2006年の数年間に渡る冬の時代にお世話になり、店の10周年に自分のソロパフォーマンスをやる事でやっと少し
義理や恩を返せた
。)

明日は力の限り満身創痍でも戦う先輩に声援を送り続けたい。

こっそり行って見届けようと思っていたが、

関係者では無い自分でも会場に入れるか不安だったから、


今日の昼過ぎに久しぶりに先輩の携帯に連絡し、「応援に行きます」と告げたら、
かなり喜んでくれて、
自分も少し役に先輩の立て
たのかと思い義理をちょっとでも返せたのかな?

損得で動こうなんて
気持ちは捨てた方が
いいし、受けた恩や
義理の為に動くのが
人間本来の姿だと思う。


先輩も選手の第一線から退いて指導者になるが、先輩は最高師範からの教えと自分のやり方で立派な教えをたくさんの教え子達に授け育て上げ、世に社会に送り出している。

極真空手は武道であり、スポーツや格闘技とは違い、

礼節を重んじ、


己に打ち勝つ精神を養える。


長澤一成先輩の挑戦や今までの選手として指導者としての功績は、自分の今後の人生においても、最も手本となる生き方になるだろうと思う。


1988年、1999年、2009年、十年周期で自分の人生の節目に先輩が現れる。


とにかく明日は、
極真会館大石代吾最高師範、長澤一成道場の一門下生として、過ごしたい。


20年ぶりに師範の話しを生で聞けたらいいなぁ。

明日は昼過ぎに杉浦が車で奴の彼女と実家に迎えに来てくれて、一緒に会場に行きます。


(杉浦は昨日から彼女と三重県の伊勢神宮に行っていたらしい、いいなぁ)

なので後輩の卒業公演や当分知り合いの公演には行けません。

(直前に直接電話くれたら別ですが)

『今は自分が特に会いたい人やユーモアもあり熱い話しが出来る(絆が繋がっている)人とは、(実家近郊以外だと、静岡県だと磐田とか沼津だし、それから全国)どこへでも行って語り合いたい』

なので、やりたい事やしなければならない事もあり、以前より付き合い悪くなったりいろんな所に顔は出せませんが、義を大切にしたいので


このままでいいです。

もしくは今の自分の状態が一番の幸せのように感じます。


野心や欲望は望まないようにしています。

自分に関わる人の幸せが自分の幸せです。

これ以上いい事を望むとロクな事ないような気がするので、
4月の公演の稽古にも専念したいし、マイペースで行かせていただきます。

「男を賭けて結んだ契りは命の限り守り通します。」

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.neverlose.jp/mt/mt-tb.cgi/1099

コメントを投稿

About

2009年02月14日 23:29に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「自分を越えられるのは自分だけ(大石代悟師範)」です。

次の投稿は「谷本進・次回出演情報。」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type