先月号の雑誌「歴史街道」で見た島津義弘の特集の中で、
薩摩藩(鹿児島県と宮崎県の一部)島津家には戦の退却の際に大将をまず敵の追撃から守り避難させる為に、最後尾の兵が道に一列に並び道をふさぎ鉄砲を打ちまた後ろに下がり
、前と後で交互に攻撃し鉄砲が無くなったら刀で奮戦して命を落としても敵を大将に近づけない戦法があったという。
天下分け目の関ヶ原(岐阜県)の戦いで、島津家は
訳あって西軍に属したが「自分達の戦いをする」と積極的に戦いに参加しない内に西軍が負けた。
戦場で島津勢だけが残され、前には東軍後ろは山で、(絶体絶命の中)島津義弘は敵中突破をする。
1500の兵で敵7万人の大将である徳川家康の本陣めがけて、敵中突破して追撃されまくるが「捨てがまり戦法」で、最後は薩摩に戻れたのが80何人だった。
(その何百年後、島津義弘の薩摩藩は江戸幕府を倒し明治維新の立役者となる。)
がまりとは伏兵の事をいうが、敵においつかれては兵の一部が自らを犠牲にして退路を確保し、時には大将を名乗りの身代わりとなっていく
。
そうした犠牲を繰り返しての決死の突破だったみたいで、本を読んでいて俺はある男に連絡をしたくなった。
愛媛県の松山市にいる菊池之成の所へ。
2005年から6年当時。
演劇界から四面楚歌で孤立無縁の立場というか、自分から選んだ独自の(自業自得?)道を進んでいた。
之成(ゆきなり)が入ったのがまさにその時で、戸枝と之成が1番新人だったから、負担も大きく二人ともよくやってくれたんだ。
之成の初舞台が新宿のクラブWIREで沼津からGOOF Y’S HOLYDAYを招いて2つでやった(関東では1番最初の実験的なイベント、戸枝の企画)タバコトークで、
次が王子小劇場に3日間、POUND ROCKと岡山からSHINTOKA/神闘歌を招いて3つでやったBegin at the Begnningであり、
次は先日書いた岡山PEPPERLANDでのAKASIC SPORTS(神闘歌企画)だった。
之成はその他、俺が出演したanglasadのPVの映像2作品のサポートもしてくれてたり、名古屋で行われたメガトンロマンチッカーとの合同ワークショップにも参加してくれた。
(みんな東海道線で名古屋まで行ったんだよな)
あの当時は本当に創成期で、まだ今やっている動きの芽が出る前で、試行錯誤の末始めたばかりの時だった。
王子の時だったが 舞台美術家の人の仕事が遅れ、明日本番で劇場に入ったのにセットや展示物がこのままだと間に合わない状態になり 、戸枝と之成は徹夜で劇場に泊まり作業をしてくれた。
当時は自分に正直に誰もやっていない新しい動きをしたくて、(いろんな団体と国交を断絶していたせいで)当時どこの助けもなかったから人手がいなく、最後のかたずけの時もPOUNDROCKと岡山から応援に来てくれたメンツの協力があっても夜中の2時ぐらいまで
かかってしまった。
他のメンバー含めあの一年間は敵中突破で島津の「捨てがまり」戦法状態だった。
毎回4人の出演者さえも出るのが難しく、宏樹の代わりに之成、その代わりに亮になり、 みんなで繋いでなんとか凌いでいたのを思い出す。
しかも全部演劇ファンや関係者のいない場所、いばらの道だった。
之成は経験も無い中、本当にあの一年間よく守ってくれたし支えてくれた。
島津のサムライと同じだ。
だから今の俺がある。
NEVER LOSEは昔からそういう時に自己犠牲になれる奴がいたおかげでやってこれた。
苦労をかけた之成にも今の俺を見てもらいたかった。
昨日愛媛にいる之成と電話で話した時。
松山市で今充実した日々を送っているようだった。
また一緒に(愛媛県松山市にある)道後温泉に入りたいと言ってくれた。
「菊池之成ありがとう!!」
他のみんなや之成との絆はこれからも続けて行くし、あの時があったから今の状態があるし、これから俺が出演し一緒にやっていく人達とやっている事の内容で少しでも恩が返せたら嬉しいと思う。
そして俺も之成達がしてくれた事を逆にこれから付き合いのある人にもしてあげれるように、もっともっとなろうと思った。
この10年の間みんながつないで守り抜いてくれた大切なモノや志 、これからも生かしていきたい。
(誰の事もダメだったとか思っていないよ)
そしてそれぞれの道 での活躍を切に願う。
関わってくれた全ての人達に感謝を込めて、「ありがとう」と言いたいしこれからの行動で示したい。
だから俺の旅はまたまだ続く。
今聞いているエレファントカシマシの「四月の風」という歌がいい。
